1級
このレベル前後からTOEICの点数では実力の評価が難しい時期になります。また点数で評価するという意味自体がなくなるレベルです。950点でも満点でも、あまり意味はありません。TOEIC卒業の時期です。満点になるまで繰り返して受けても意味はありません。むしろ、これからどのような経験と学習の幅を積んでいくのかで、その人の本当のツールとしての実力が問われてくる時期でもあります。
- ある英語教育者(もちろんTOEICも高得点です)の人が何とかというライティングテストでも高得点を取ったというので見せてもらう機会がありました。Obviousではないものの、なんとなく「お〜ら、俺はこれだけ書けるんだい!」という雰囲気です。う〜ん、確かにそこそこ自然に書けています。でも正直、so what?レベルです。
- うちの会社の日本人スタッフたちは一日何百通ものメールを社内外から受け取ります。全部英文です。それに対して何十メール以上英文で返します。時にはmanagementに向けての発信も混ざり、wordingやpoliticsにも気を使いながらです。比べてみると正直、ライティングの鍛え方はレベルが違うなと思いました。スタッフ全員がTOEIC900点以上ではありません。でもあれくらいの英文はみんな書いてます。また、外国人とのやり取りに必要なロジックの切れはスタッフのほうが上に感じました。
- もちろん企業で夜も眠れないような悔しく歯がゆい思いを経験しながら養われたcommunication能力と、英語学習と教育だけでここまで来た人を直接比較してどうのこうのを言うつもりはありません。こういうことを書いたのは、これが1級当時に陥りやすい"妙な自信"の一端をあらわしているように思ったからです。
- この時期にはあたかも自分が「そこ」に到達したかのような錯覚に陥りがちです。自信がつくのはいいことです。とくにOutputにはある程度はったりにも似た自信が必要なこともあります。しかし、習熟への道を考えるとこれは逆効果の面もあります。
- まだ欧米の発想というか思考ロジックがまだ正確にはわかりません。"英会話"はしている、でも少しピンとこない。発想の理解にきょとんとしているうちに会話でおいていかれる上級者は結構います。しかし、リスニングに余裕が出てきたので会話でも無理して話すというシーンは少し減りその分は楽になってくることを感じます。
- この時期ですと、殆ど映画は最低でも40%くらいはわかるはずです。簡単なものであれば70%くらいは分かるはずです。気負い無く情報収集のために読むという事も出来るはずです。
- ここまでくる人は聞く・読む・話す・書くというcommunicationの作業が満遍なく出来るようになってきている人だけです。日本人には少ないですが、話すことだけが突出してできて、いわゆるはったりだけで企業を渡り歩いてきました、でもいざレターの一つも書かせればぼろぼろというのは結構アジア人には多いパターンです。Short-termでは目立ってよいのですがlonger-termでは会社のためにもあまりなっていないように思います。
- このころの私は:
- すでにマネージャーになりいろいろな場面でinitiativeをとり、場をleadする必要が多くなるにつれ、Outputの頻度もとても増え自信も増して来た時期です。
- 少なくとも仕事上ではCommunicationの言語が英語だからということがストレスの理由にはすでにならなくなってきます。逆にビジネス上では「遊び」の少ない英語のほうが日本語よりも楽と感じることも増えてきます。特にライティングがそうなります。
- ところがビジネスの場を離れ、managementと会食とかとなるとまだいけません。欧米での生活経験の無い私にとっては向こうの文化や環境などについて話が及ぶとついていけません。おまけに興味もありません。大体のmanagementはアジア担当といっても若い女性のアジア人以外には興味ありませんから、おいおいこっちが向こうの話題に合わせてやる必要があり疲れます。欧米人や英語にあこがれていた時期にはこれで済んでいるのですが、このレベルになるとそれが無いので疲れます。そして彼らは放って置けば自分のことばかり話してます。
- 私が、上で述べたように自身満々だったかどうかは自分では分かりませんが、2級に比べて格段に自信がついてきていたのは確かです。
- この頃から殆ど学習・勉強の形をとって英語接するということはなくなりました。ただ読みたい本を読んだり、観たい映画をみたり、それを英語で行うというだけのことになってきました。たまに昔のヒアリングマラソンのインタビューを引っ張り出して聴いてみましたがが、1回で殆ど分かるようになっていました。